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2011年10月10日投稿
ディテールに凝った男 【訃報 梶田達二】
昭和40年代の怪獣ブームは子供たちを徹底的に熱狂・興奮させ、その
「もっと怪獣が見たい!」
という欲求は、放映、上映される本編だけではとても満たされなかった
(なにしろ、ビデオもなければ今のようにフィギュアなどもろくにになかった
のだ)。
その、禁断症状を埋めるのが、イラストレーターの絵であった。
小松崎茂、石原豪人という二大巨匠を筆頭として、多くの雑誌、単行本は
梶田達二、中西立太、前村教綱、南村喬之といった絵師たちが筆をふるい、
華麗なる怪獣ワールドを展開していた。現在のようにプロダクションの
チェックがきびしくない時代であったから、彼らの描く怪獣画には、
どれもオリジナル設定に比べてほんの少し(時によっては大幅に)逸脱して
おり、そこが個性であった。当時の子供たちなら、梶田ウルトラマンと
南村ウルトラマンの違いなど、簡単に見分けられたのである。
それら怪獣画家の中で、特にディテールに凝っていたのが梶田達二氏であった。
梶田氏の描く怪獣のドラマ絵は、他の人たちの描くものとは格段の差で
シチュエーションが豊かであり、われわれをして、もう一つの放送作品を
見ているような気にさせたものであった。それは、単に“目に映るものを絵に
する”絵描きでは梶田氏がなく、脳内のイメージを大いなるドラマ性をもって
画面に焼き付けられる“想像力”にして“創造力”を氏が有していたためだろう。
怪獣の巨大さを描かせて第一人者だった。
そのドラマ性に優れていた原因が、梶田氏があまり怪獣に思い入れがなかった
から、というのはちょっと皮肉な気もするが、これは確かなことである。
梶田氏自身の証言がある。
http://garagara9.s1.bindsite.jp/pg148.html
「怪獣は現実にいるものと違って、荒唐無稽でしょう? それは面白いん
だけど、そうしたものを続けて描いてると、どうしてもストレスがたまってね、
発散しようと自分の好きな飛行機を描いたりした。背景の建物とかも結構
描き込んだりしてたね」
梶田氏のストレスが描かせたリアルなビルや兵器が、怪獣の存在に大いに
現実味を持たせ、それが梶田氏の怪獣画の特長になっていった。もともと
小松崎茂の描く戦記画のファンで、航空機や戦車などの資料も自身所有のもの
を大量に所持していた梶田の絵におけるメカニックの描写の現実感は、他の追随を
許さなかった。
梶田氏の実家は老舗の楽器店であり、趣味の世界にマニアックに没頭する
性格は、その恵まれた出自からくるものだったのかもしれない。
……別に、怪獣ものを多く描いていた画家さんが怪獣を大好きである必要は
ない。むしろ、仕事として割り切って描いていてくれたからこそ、そこに
思いもかけない解釈が生れ、怪獣ワールドを幅広いものにしてくれていたのだ、
と思いたい。現在、怪獣やヒーローを神聖視するマニアが多いが、マニアたち
が原典をあまりに不可侵性の高みに置くと、その世界は萎縮してしまう。
オリジナルのドラマから得たインパクトを脳内でイメージ増幅させ、本編
以上に迫力のあるものにしていたからこそ、昭和の怪獣ブームはさまざまな
局面を得られ、発展していけたのだと思う。怪獣解剖図解でコンビを組んで
いた大伴昌司に並び、怪獣のイメージを大いに広げた(いい意味でも、悪い意味でも)
ライターの一人である中岡俊哉の『新・世界の怪獣』における宇宙怪獣バグンの
絵の迫力は、言ってしまえばパチモン怪獣に過ぎないバグンを、ウルトラ
怪獣並のクオリティに格上げしていた。
怪獣から“解放”された後の梶田氏は、帆船絵師として斯界で高名な存在と
なり、思うままに好きな絵を描けた晩年を送った。とはいえ、かつて描き
まくっていた怪獣絵もまた忌避することなく、子供時代に氏の絵にあこがれた
人たちに囲まれた会でも、嬉しそうに往時の思い出話を語っていた。
師として仰いでいた(正式な弟子ではなかったが)小松崎茂以上に、
画家としての人生は幸福なものだったと思う。
11月8日、胃ガンで死去。75歳。精神的に物凄く豊かであった昭和の
怪獣ファンとしての子供時代を過ごし得たお礼を、心から申上げたい。
ご冥福を。