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2011年8月21日投稿

欲望を肯定した男 【訃報 グァルティエロ・ヤコペッティ】

8月18日グァルティエロ・ヤコペッティ死去。91歳。
まだ生きていたとは思わなかった。
若い人は名前も知らないかもしれないが、この曲なら誰でも聞き覚えがあるはずだ。
http://www.youtube.com/watch?v=C4rLgUdb3vs&feature=player_embedded
『モア』

この素晴らしいラブソングが映画『世界残酷物語』(1962)の主題曲
であるという、そのミスマッチ、その皮肉。
http://www.youtube.com/watch?v=N7CxiDw3Huk&feature=player_embedded

ドキュメンタリー映画というと、教育文化映画のお堅い内容を思い浮かべる
しかなかった時代に、世界の奇妙な風習・文化を、悪趣味なノゾキ願望丸出し
に、しかもそれ以上に演出手法が怪しく、半分くらいは“ヤラセじゃねえか?”
と思わせるわざとらしさでこちらに突きつけるそのインパクト。
映画で紹介されている、人間の欲望が生み出す残酷喜劇を最も体現している
のがこの映画そのもの、といったメタ構造まで見せるような、そんな作品
だった。

本家の映画を公開時期にはまだ観に行かせてもらえる年齢ではなかったが、
少年マガジンなどがまず、そのブームに影響を受けて『世界の奇習』という
ような特集を組み、子供にまで“残酷物語のヤコペッティ”の名は知れ渡って
いた。藤子・F・不二雄の『モジャ公』(1969)にはタコペッティと
いうパロディキャラクターが登場してくるほど、その名前は通りがよかった。
やはりロッセリーニとかビスコンティとかという名前でなく、ヤコペッティ
という日本人には奇妙に(卑俗に)響く音の名前が印象的だったのだろう。

この『世界残酷物語』の大ヒットにより、後続のモンド映画が山ほど出て
きた。後のレンタル・ビデオ・ブームのときにかなりソフト化されたので、
借りまくっても何本も見たが、やはりヤコペッティのものは、他のパチもの
に比べ段が違った。ただ残酷シーンをこれでもかと羅列する類似作品に比べ、
ヤコペッティのものは、それがどんなにインチキ臭かろうと、そこに一本、
「文明というものの悲しさ」
という大きなテーマが通底していたのである。未開人の奇習を紹介した
後で、対になるように文明社会の珍商売が紹介される(その中には、牛に
ビールを飲ませてマッサージをする松阪牛飼育の場面も含まれる)。
人間の行為は、いつの時代も、どこの国であっても結局のところ奇妙な
ものであり、それが未開の地では信仰により、文明社会では欲望により
行われている、ということが表現されていたのである。そして、それを
否定するのでなく、”その行為こそ、人間というものの存在なのだ“と、
諦念を含んだ大らかなユーモアを以て画面上に示していた。

……突飛な連想だが、私はほぼ同時期に日本でブームになった、ある作家と
このヤコペッティ映画が重なって思えて仕方がない。どちらも、人間社会は
欲望で動き、それは自然なことなのだ、と繰り返し、説き続けていた。
その作家の名は司馬遼太郎。国民的作家をキワモノ映画作家と一緒にするな、
と言われそうだが、この映画と同時期の代表作『竜馬がゆく』の基調となるテーマは、
「人間は理ではなく、利で動く生き物である」
ということである。それまでの武家もので卑しめられていた金もうけという
行為を司馬遼太郎は肯定的に描き(竜馬がやろうとしていたのは世界を相手
の金もうけだった)、高度経済成長期の日本人の背中を押していた。
司馬遼太郎は上から、ヤコペッティは下から、欲望というもので動いている
人間を徹底して観察し、それを肯定していたのである。そういう時代であり、
ヒット作家というのはいつもその時代を肯定的に描いたものであるのだろう。
ある意味、『世界残酷物語』は、司馬作品があまりに好意的肯定的に是とした
資本主義の、隅っこの歪みの部分を描いた作品のように思える。

ヤコペッティ映画のナレーションで私が一番好きなのは、『続世界残酷物語』
の、冒頭のエピソードのものである(この続編は実際にはヤコペッティは
ほとんど加わっていないのだが、ナレーション原稿はヤコペッティのもの)。
ペット用の犬が、吠えて近所に迷惑をかけないよう、手術で声を出せないよう
声帯を除去してしまう”工場“を紹介しつつ、
「前作でわれわれはひどい目にあいました。動物を虐待するシーンが残酷だ
と愛犬家協会からクレームが入り、そのシーンをカットした再編集版を新たに
高い予算をかけて作らねばならなかったのです。そこで、われわれは今回、
このシーンを冒頭に置くことにしました。これなら、苦情が来たらそこだけ
映写機にかけなければそれでオーケーです。金もかからず、われわれも犬と
プロデューサーの悲鳴を聞かずにすみます」
もちろん、こう言いながら前作で最も大きな苦情が来たのと類似のシーンを
冒頭に置くことが眼目。このブラックなユーモアとしたたかな“良識”への
反骨が、ヤコペッティの持ち味なのである。

彼はもともとは映画畑の人ではない。戦後の1950年代、同じ敗戦国として
パラレルだが日本でも“実話探訪雑誌”がブームとなり、エロや猟奇の取材記事
が人気となっていた。彼はイタリアでの同系統の雑誌の記者をしており、その売れ方を
見ているうちに、“これを映像化したらイケるのではないか”と思いついたわけである。
似たような映画は当時すでにあったが、いずれもブルーフィルムと同様、
好事家のコレクションや、地下映画用として細々と上映されているに
過ぎなかった。それを堂々と世界公開してしまうあたりが、“人間の欲望”
を肯定した者ならではの行動であった。

人々が欲望にギラギラしていた時代はとうに過ぎた。『世界残酷物語』に出てくる、
東京温泉で性的マッサージを受けるサラリーマンたちの姿が、なぜか無性に
いとおしく、懐しい。

冥福を……祈るのは似合わない人ではあるが、ともかくも、安らかに。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa