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2011年6月29日投稿

早熟だった男 【訃報 竹内博】

上の世代たちが70年安保の余波でシラケているとき、われわれの
世代はシラケるどころではなく、身を熱く火照らせていた。
「ついに、自分が理想としていた本が目の前に出現した」
という興奮が全身を満たしていた。
ケイブンシャ発行の『原色怪獣怪人大百科』(1971)である。
本とも言えぬ、ポスター大のシートを折り畳んでケースに入れただけの、
簡易な作りの刊行物だったが、その出現はまさに事件であり、画期的出来事
であり、こちらをして狂喜乱舞させるものだった。
どこがそんなに画期的だったのか。

それまでの怪獣図鑑は、円谷プロや東宝や東急エージェンシーという会社
の枠組みの中で作られた、会社単位のものであった。ウルトラシリーズの怪獣に
関していくら詳しい本でも、そういう本にはマグマ大使の怪獣は載って
いなかった。ゴジラとガメラが同じ本の中に登場することもまれだった。
まして、赤影のような時代劇に登場する怪獣は、誰にもほとんど無視されて
いた。商売敵だったからだ。

子供ごころに、そういうオトナの事情は斟酌しつつも、私はそのことが不満
だった。怪獣はすでに文化だ。会社のワクを越えて、いま、日本に出現した
怪獣を網羅したリストを作成すべきだ、そう考えて、弟と二人で、個人的リスト
などをちまちま作成していたくらいであった。

そんなところに、この『原色怪獣怪人大百科』は青天の霹靂の如く現われた。
正続を合わせると、ほぼ、日本において“怪獣・怪人“と認識される(妖怪
とかロボットとかも含む)の8割以上は網羅していたのではないか、と思われた。
モノクロ時代の怪獣が多く収録されているのも大変嬉しかった。
データや解説はともかく、ここまで博捜して写真を集めた(ごくごく一部、
写真がどうしても手に入らなかったのか、イラスト処理のものがあったが)
こと自体が凄いことだった。そのコンセプト自体に感心・感服したのである。
そして、それを(マルCの壁を越えて)作った人の苦労も思い合わされた。
その人の名前こそ、竹内博である。
世の中には凄い人がいるものだ、などと感心していた私は、その後、彼が
自分とたった3歳しか違わないということを知って愕然とする。
この本を作ったとき、まだ17歳(!)。
早熟の天才、それが竹内博だった。

後で、ジャーナリストの佐野眞一氏の著作で、ケイブンシャ社員として
彼がこの本の製作に加わっていたことを知った。大学を出てケイブンシャに
入社し、最初に彼がやらされたのがこの『原色怪獣怪人……』で、その作業は
新宿の連れ込みホテルの一室で行われたらしい。隣室から漏れる男女の
あえぎ声を耳にしながらレッドキングだのバルタン星人だのの身長体重を
書かされる作業は、当時の”一般常識”を持った青年として、かなりの
抵抗があったようだ。そんな彼がその文中に
「『怪獣博士』という異名を取っていた円谷プロの少年社員」
という表現で登場させているのが竹内博氏である。いい加減に仕事をしていた
彼をその少年は叱咤し、本造りというものの心を学ばせてくれた、と佐野
氏は書いている。

われわれの世代はカタログ世代と呼ばれる。
それはマガジンハウス社の『POPEYE』や講談社の『ホットドッグ・プレス』
が作り出した文化世代だ、と一般に言われているが、私はそれ以前に、
あまりに情報量が多く雑然としたその状況を、とりあえず一望できるまでに
まとめようという考えは、この71年の竹内氏の『原色怪獣怪人大百科』が
嚆矢ではないか、と秘かに思っている。あれを卒業した子供たち(一部に
私のように卒業しなかった者も残るわけだが)が、音楽に、衣服に、
アイドルに、『原色怪獣怪人大百科』と同じ形式を求めたのである。
彼はただ怪獣図鑑を作ったのではなかった。スタイルを創出したのである。

やがて彼のもとには、同じように『大百科』にハマり、そのデータの不備
やさらに完全な放映リストなどを自作していた者たちが集り、現在のオタク
文化の原型のようなものが形作られる。それが伝説の『怪獣倶楽部』であり、
集ったメンバーには氷川竜介、開田裕治、池田憲章、富沢雅彦などがいた。

それ以降、竹内氏のまとめた書籍群はことごとく、その世界の基準図書に
なっていった。現在の日本のサブカルチャーは、たどっていくと全てその源流に
竹内氏の仕事とそのスタイルが存在する。ゴジラに関する著作など、新しい本が
出るたびに秘蔵の新資料、というものがこちらを驚かし、この人はいったい
どれくらい秘蔵の資料をストックしているのか、と感心を通り越して呆れ返った
ものだった。資料(情報)の量が質を決めるという、単純にして厳正なる法則
が、竹内氏の本には通底していた。今後半世紀経っても、氏の書籍はその価値を
失わないだろう。

ただ一点、一点のみ、あまりに早い逝去故に本来実際にお会いして述べる
べきであったのがかなわなかった竹内氏の本を読んでの不満は、これだけの
情報・資料を以てその輪郭を描いた怪獣・特撮の世界に、9分の熱は感じ
られても、1分の“狂気”が抜け落ちていたことである。それを初めて感じ
たのは、氏の師匠である大伴昌司の軌跡を追った『OH!の肖像』を
読んだときのことだ。大伴氏を絶賛し、その早世を惜しみ、“今、ヤツが
ここにいてくれたらねエ”と嘆く野田昌宏氏と、気持ち悪い奴、とミも
フタもなく切って捨てる実相寺昭雄監督。この大物二人の、大伴氏への評価
の徹底的落差を、並列して記すのみでなぜ追わなかったのか、その間(あい)
に生じる人間の複雑さをこそ、描いて欲しかったという思いも確かにある。

……とはいえ、また思えば、その泥沼に足を敢て踏み込まず、データとして
のみ残すというやり方は、カタログ的手法を生み出した男・竹内博にあい
相応しい、と言えるのかもしれない。いずれにしてもはっきりしているのは、
竹内氏は、氏なかりせば残ることすらおぼつかなかったデータを膨大な量、
後生に残したということだ。その分析と評価は、後の世代に託された大きな
遺産であり、宿題と言えるのだろう。それが散逸しないことを切に祈る。

こうして訃報を客観的に書くという行為は、私自身にとっては、自分を構成
していた大事なものが永遠に欠けてしまった、というショックによるダメージ
をやわらげるための行為でもある。ただ、竹内氏の場合、それがあまりに
大きすぎる。客観的になど、書けるわけもない。
冥福を祈るという言葉すら虚しく響く。
6月27日、多臓器不全にて没。享年55歳。嗚呼。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa