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2011年6月19日投稿

時代の幕をひいた男 【訃報 平田隆夫】

http://www.youtube.com/watch?v=MSqGUyfw1x8&feature=player_embedded

幡ヶ谷にある中華料理店『チャイナハウス』で何回かお会いした。
ここのマスターの奥さんが、『平田隆夫とセルスターズ』の女性ボーカル
(二人いるが、そのうちのメガネの方)のみみんあいさんだった。
あいさんには私のやっていたラジオに出演してもらったことがあるので、
そのお礼を言われて恐縮した。
「僕はねえ、変な本を読むのが趣味で、唐沢さんの本で紹介されている本を
いつも古本屋で探すんですよ! 今度と学会の集りに呼んでください!」
とおっしゃっていた。痛いほど力強い握手をしてくれたのを覚えている。
芸能人には握手に力を込める人が多いが、中でも平田氏のその力強さは
印象に残るものだった。

1971年のヒット『悪魔がにくい』が、平田隆夫とセルスターズの最大の
ヒット曲である(オリコン1位)。翌72年にテレビ時代劇『浮世絵・
女ねずみ小僧』の主題歌として発表された『急げ風のように』も、かなり
人口に膾炙した。
しかし、平田隆夫とセルスターズと言えば、もう万人の認めるところ、『ハチの
ムサシは死んだのさ』である。後に平田氏が自分のスナックにつけた名前も
『ハチのムサシ』で、この、異色の曲で彼らの名が日本歌謡曲史に刻まれ
ていることは、自らも認めていたわけである。

1972年。世の中は若者たちを覆っていた敗北感、虚脱感、虚無感からの
脱却にあがいていた。比較的年少の男子は天地真理に、女子は郷ひろみに
キャアキャア騒いでいたが、大学生たちは妙にシニックに、しかし抵抗の
気概は無くして、あさま山荘事件で最後の抵抗を試みた赤軍派にも、
シンパシーを表明する者は少なかった。
大人(政治)の世界はニクソン訪中、田中内閣発足、そして日中国交回復と
激動が続くが、日本人の生活はどこか地に足がついていない感じだった。
……すべて、70年安保の敗北に、きちんとした総括をしていなかったからだ
(大体、赤軍派の永田洋子が“総括“にヘンな定義をつけ加えてしまっていた)。
万博も、三島由紀夫の切腹も、何かもう遠い話のようだった。

『ハチのムサシは死んだのさ』は、作詞の内田良平に言わせると政治的な
意味合いなどは全くない、ただのナンセンス・ソングであるということ
だったが、それが事実であるにせよ、あの時代の若者たちには例外なく、
70年安保への追悼と、その戦いの総括という意味合いを以て歌われていた。
共産党シンパであった私の小学校の担任はこの歌が嫌いで、私たちが歌って
いると、”そんな敗北を美化した歌は歌ってはいけない“と叱ったものだ。

結局、自分たちのやっていたことはハチにすぎない自分の身上を省みず、
太陽に突進していった無謀なことだったのだ、という自嘲の笑いと、
しかし、その向こう見ずな勇気は若さ故の特権だったのだ、という自己満足、
そして夕陽の燃える麦畑に眠る一匹のハチのむくろ、というメルヘン的な
情景。そこに収斂する物語は、あの戦いを一篇のストーリィにまとめ、
自己完結させるに必要充分な内容とイメージを持っていた。
ある意味、あの歌は安保にいつまでもイジイジこだわっていた連中に
引導を渡した歌だったのである。

歴史の上では、そのつもりがなくとも、そのような役割を背負ってしまう
人物がいる。平田隆夫とセルスターズは、まさに、その歴史の役割、“戦後”
の幕引きを請け負ったグループだったと思う。

その幕を引き終ったところで、平田氏はポン、とセルスターズを解散させて
しまった。その後再結成したりもするが、やはり、時代を背負ったものは
時代と共に変化しなくてはいけない、という意識があったのだろう。

ところで、謎であったのが“セルスターズ”というグループ名である。
“衛星”という意味ならテルスターズだ。みみんさんにこの点を質問したら
「最初テルスターズにしようと思ったンだけど、平田さんの頭のてっぺん
がそのころもう、薄くなりはじめていたのよネ。頭が“照る”スターズじゃ
イヤだから、一文字変えてセルスターズにしたのヨ」
ということだったが、果たしてホントウかどうか。

平田隆夫氏の死は、私にとり、“幻想の70年代”の真の終わりを告げられた
と同じ意味を持つ。チャイナハウスで、もっとお話をうかがっておくべき
だった。後悔の念に堪えない。

12日、死去。72歳とは若い。
ご冥福をお祈りしたい。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa