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2011年5月12日投稿

血が怖かった男 【訃報 団鬼六】

伯父のプロダクションが横浜で定期落語会をやっていた頃、楽屋にしょっちゅう
訪ねてきてくださった。会場設営のとき、高座の袖に“団先生席”という
椅子を用意させていたくらいだった。

もちろん、差し入れはいつも最高級の寿司であったりうなぎであったり。
何度も、「芸人さんを連れて家に来てよ」と誘われたが、伯父が文化人と
つきあうのが苦手で、ついに一度もお招きに応じなかった。残念である。
いろいろお話もうかがいたかったのに。

根っから芸人がお好きだったのだろう。立川流の顧問もやられていた。
立川流の新年会だったかで、隠し芸を披露されたのを見たことがあるが、
「アフリカの土人の割礼の唄」
という珍芸であり、なにやら呪文のような文句の間に
「イタタ、イタタタ」
というカワを切られた男の悲鳴がはさまるというナンセンスなものだった。
こういう芸を人前でやるモノカキというものの心理を、私はよくわかって
いるつもりでいる。私自身、ものすごい顔見知りで、知らない人には電話を
かけるのも躊躇するシャイな男なのに、一方では芝居なんぞに足を突っ込み、
ヘタクソな演技を人前でやってみせるタイプだからだ。……要は自虐的というか、
かなりマゾヒスト的な人間が開き直るとこういうことをやるのである。
純文学を目指していた人間がその意に反しながらも、SM小説で大家に
なってしまうという現象も、似たようなものであると思う。

20代で純文学の賞を取るが食えず、バー経営にも失敗し、生活のために
ポルノ小説で身を立てる決心をした彼は、まだ幼かった子を背中におぶい
ながら、その子に、というより自分に言い聞かせるように
「お父ちゃんはね、これからポルノ作家になってお前たちを養って
いくんだよ」
とつぶやきつつ、夜道を歩いたという。純文学を志したものがポルノに
転向すると、文学仲間からは汚れた存在に堕したという感じで軽蔑され、
罵倒された時代だった。もう後には引き返せない、という自分への言い聞かせが
必要だったのであろう。

とはいえ、人生最大のヒット作となった『花と蛇』は、アブ雑誌『奇譚クラ
ブ』に花巻京太郎名義で最初、投稿したものだった。根はそういうことにも
興味があったわけだ。『奇譚クラブ』は日本カルト雑誌史に、沼正三『家畜
人ヤプー』と団鬼六『花と蛇』の連載を続けさせたということで名を残す。
時代小説の傑作『鬼ゆり峠』の前書きに、“我々、SM三文ポルノ作家という
のはいわゆる職業作家ではないから”と書いているのは、そういうことに対する
屈折した心理も働いているのかもしれない。

SM小説の大家となった団氏だったが、本人は気が小さく、血を見ただけで
卒倒するような繊細な人間だった。先の『鬼ゆり峠』前書きに、
「何時であったか、あるSM雑誌の若い編集者がきて、西部劇でインディアン
が白人の生皮を剥ぐ残忍場面を見て肝を潰しましたが、一度あんな凄い場面
を書いてもらえませんか、というのでこっちも肝を潰した。人間の生皮を
剥ぐなんてそんな恐ろしい話をどうして私のような気の小さい人間が書ける
ものか」
と、悲鳴のように記しているのが微笑ましい。そのくせ、この『鬼ゆり峠』
にも、女性のクリトリスをカミソリでえぐるというような、かなりエグい
場面があるのだが、前書きを書いているときは“表・団鬼六”であり、SM
シーンを書き出してノッてきたときの“裏・団鬼六”とは、人格が異っている
のであろう。

最近のクリエイターには(SMでなくとも、小説、映像、演劇など全ての
シーンにおいて)、この、表と裏のスイッチングがある人があまりいない
ように思う。趣味をそのままダイレクトに仕事にしているものだから、
すさまじく博識で、構成も巧み、キャラクター造形にまで遺漏がないが、
そこで仕事にある種の矩(のり)を越えるというか、神が降りる、という
瞬間がない。実際、『花と蛇』にしろ、沼氏の『家畜人ヤプー』にしろ、
小説としての結構は破綻していて、はっきり言って体を成していないという
シロモノなのであるが、しかし、その、読んでいる最中の面白さというか
テンションの高さというかは、人間でない、魔性のものが乗り移った筆が
綴っているとしか思えないものがあった。

団鬼六、という名は本人の談によれば団令子(デビュー当時の人気女優)の
ファンだったから、とか、戦前の作家村上浪六からとったとか言うことだが
あまり信憑性はない。民話の『大工と鬼六』からとったものではなないだ
ろうか。大工に橋をかけてやる替わりに俺の名前を言い当てろ、でないとお前の
目玉をもらっていくぞ、と言う鬼が、子供の歌う手毬唄から鬼六という名を
言い当てられて消えてしまう。SM小説家(鬼)である存在は団鬼六であり、
自分本人である黒岩幸彦ではないのだ、という表明だったのではあるまいか。

SM小説で稼いだ金で、一時氏はピンク映画の制作プロダクションを経営
していた。ここで監督をして食っていたのが、以前黒澤明とのコンビで
『七人の侍』などを制作した天才プロデューサー、本木荘二郎だった。
団氏は本木に製作費を渡していたが、次第に本木がその金をチョロまかし、
5人女優を出すというところを3人しか出さなかったりしたことに腹を
たてて彼を切ったという。
会社経営は、たぶん黒岩幸彦の人格の方でやっていたのであろう。

多くの役者たちの面倒を見、趣味の将棋でも多くの若手棋士たちの面倒を
見た、世話好きでもあった。作家らしい作家として、最後の文士的生き方を
まっとうしたのが、純文学者に非ず、そこから落魄したSM小説の書き手で
あったことに、どこか痛快さがただよう。

5月6日、食道癌で死去、79歳。ご冥福をお祈りし、あわせて当時の厚遇
に感謝したい。
ごちそうさまでした。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa