ニュース

新刊情報、イベント情報、その他お知らせ。

イベント

2011年5月11日投稿

切りまくった男 【訃報 岡田茂】

9日、肺炎で死去。87歳。
東映名誉会長、日本映画界のドン。

1993年、潮健児の自伝『星を喰った男』の出版記念パーティに、
岡田氏は出席してくれた。
潮さんはこのパーティに救急車で会場入りし、点滴つき車椅子で出席するという
状態で、すでに肝臓は機能を停止しており、パーティの終るまで生命が保たないかも、
という状態だった(結局、翌日に死去)。
会場入りした潮氏の顔は土気色であり、私は付添の人に頼んでメイク道具一式
を持ってきてもらい、パーティに出る前に顔色を直すつもりだった。
そうでなければ、とても人前に出られないと思っていたのである。
そこへ、お弟子さんが駆け寄ってきて、潮さんに
「岡田社長(当時高岩淡に社長を譲って会長になったばかり)がいらっしゃい
ました!」
と告げた。すると、潮さんの瞳が輝き、顔が見る見る上気して、頬に赤みが
さしてきた。結局、潮さんは車椅子ながら、メイクもせず、マイクを握って
岡田社長に礼を述べ、お客さんたちに見事な挨拶をしてパーティの主役を
堂々、つとめ挙げたのである。
死ぬまで”東映専属“の心積もりであった潮健児にとり、この岡田茂の来場は、
”東映の俳優として死ねる“という、人生最後の栄光だったと思う。

そのパーティ会場のお客さんのほぼ半数を占めていたのが、平山亨さんを
トップにいただく、東映テレビヒーローものスタッフと、そのファンたちで
あった。壇上に上がった岡田氏は、石井輝男映画での潮氏の名演などに
言及した上で、彼らの方に視線をやり、
「今日は、昔の東映の仲間たちが集まるというから、知り合いばかりかと
思ったら、僕の知らない顔が大勢おる」
とドスのきいた声で言った。
「訊いたら、テレビでの潮くんのファンたちだという。僕は潮くんにかなり
映画に出てもらったつもりだが、潮くんはそれだけでなく、僕の知らないところ
でちゃんとこんなにたくさんの“自分の“ファンを作ってきた。普通の俳優
には出来ないことだ。潮くんにお礼を言いたいと思う。本当にありがとう」
潮さんはここで号泣した。私も涙がこぼれそうになった。

その会場で同じくこの挨拶を聞いていた平山さんはどういう思いでおられたか。
自分が『悪魔くん』『仮面ライダー』をはじめ、スーパーヒーローものを
あれだけたくさん作ることになった、そもそものきっかけは、この岡田茂
が1960年代、斜陽の京都撮影に所長として乗り込んできて、『時代劇の
東映』と自他共に認めていたブランドをばっさり切り捨て、
「もう時代劇は作らせない」
と、大リストラを敢行しはじめたのがきっかけであった。

自らの監督作品『三匹の浪人』の撮影をやめろ、やめろと”強迫”され続け、
試写にやってきてケチョンケチョンにけなされ、ロクな宣伝もしてもらえず。
挙句には監督にもう昇進しているのにも関わらず、自分が東京から連れてきた
石井輝男の『御金蔵破り』の助監督につけ、と、かなり屈辱的なことを
命令された。平山さんご自身はこの命令を“石井輝男という危ない監督のお目付
役“ととり、それを引き受けたのを“私の好奇心のなせるわざ”、と肯定的に書いて
おられるが、実際には岡田茂による肩たたきであったろう。引き受けたのは、
会社をやめろという暗黙の強制に対する抵抗だった。

これでもやめぬ平山亨を、岡田茂は東京のテレビ部にとばす。着任したテレビ
部の部屋は、まだ椅子も用意されていない物置のような部屋で、そこで平山氏
はNETの宮崎慎一氏と組んで、『悪魔くん』『ジャイアント・ロボ』をはじめ
とする特撮ヒーローものを次々ヒットさせ、一大東映ヒーロー帝国を築き上げる。
岡田茂は、自分のとばした新人監督と、自分の可愛がった俳優が、自分の
知らないところでひとつのまったく新しい文化圏を形作り、育てあげていた
ことをそのパーティの席で認めたわけである。もちろん、『仮面ライダー』等
の作品が東映に莫大な利益を与えていることは百も承知だったことだろうが。

そしてまた、岡田茂は(間接的ではあるが)平山と並ぶもう一人の天才の首を
切っている。1971年、大川博の急逝を受けて東映社長となった岡田は、
腹心の今田智憲を、労組問題で会社が不安定となっていた東映動画に送り込む。
岡田のバックアップを受けて今田は経営に大ナタをふるい、組合運動に熱心だった
社員たちを退社させた。
その筆頭の一人が宮崎駿である。彼の関わった『太陽の王子ホルスの大冒険』
など、それまでの良心的大作主義から人気ヒーローもの路線へと方針を変更された
東映動画は、『マジンガーZ』『キャンディ・キャンディ』『銀河鉄道999』といった
原作つき作品で大ヒット作品を飛ばす、東映のドル箱となる。

経営の鬼の面目躍如だが、しかし、岡田茂の凄いところは、いったんとばし
たり、また首を切ったりした人間を、何のてらいもなく、また迎え入れる
ことにある。東映テレビ部にとばした平山にスターウォーズブームの時流に
乗って『宇宙からのメッセージ』をプロデュースさせたのも岡田だし、
東映動画を出て『アルプスの少女ハイジ』などの名作を手がけ、“金のとれる”
監督になった宮崎駿に『風の谷のナウシカ』を作らせ、配給したのは岡田
が設立した東映洋画部だったのである。

岡田の人格を“ヤクザそのもの”と評した人に会ったこともある。田岡一雄など
とも親交があった岡田のことだ。そういう部分もあったに違いない。しかし
ヤクザである部分を全て包み込んで、何より岡田茂は有能なビジネスマンで
あった。彼が『仮面ライダー』を認めたのも、『ナウシカ』を認めたのも、
それが“いい作品”だったからではない。
「金になる作品」
だったからである。映像作品製作がビジネスである以上、そのトップは、
芸術家であるべきではなく、夢を語るロマンチストであるべきではない。
冷厳な計算能力を持つ、ビジネスマンであるべきなのである。
日本映画界は、その黄金期から斜陽期にかけて、最も有能なビジネスマン
をそのトップにいただいた。強運な業界であったと言えるだろう。

ご冥福を祈り、共に潮健児の葬儀に出ていただいたことのお礼を、元・
所属事務所の者として、遅ればせながら御礼を申上げたい。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa