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2011年4月23日投稿
作り変えた男 【訃報 高桑慎一郎】
4月6日死去、82歳。
『チキチキマシン猛レース』『どら猫大将』『スーパースリー』
などハンナ・バーベラのアニメをはじめ、海外番組の日本語吹き替え
演出の第一人者。自分の番組には声優に限らずコメディアンから
個性派俳優、ミュージシャン、落語家までユニークなキャスティングをし
、原語のセリフにこだわらない自由なアドリブのアテレコで番組に全く
新しい生命を吹き込んだ。われわれ昭和のテレビアニメ草創期からの
ファンには、高桑演出のアテレコは聞いただけで“あ、これこれ”とわかる
だけの強烈な個性があった。
昭和3年、麹町生まれのチャキチャキの江戸っ子。早稲田大学在学中
から演劇の道(演出家)を志し、一座を組んで全国を回っていた。
戦前にプロレタリア運動と結びつけられて思想的弾圧を受けていた新劇人が、
戦後の思想開放と共に東京でも地方でも一斉に演劇活動を開始したためで、
若い人たちの多くがそれに参加し、それはまさに雨後のタケノコの如くであった。
熊倉一雄、大塚周夫、青野武、滝口順平といった初期の声優さんたちは
たいていが劇団体験を持っている。あの演出と声優さんたちのワルノリ
は、舞台役者特有の内輪ウケがもたらしたものだったと思う。
もちろん、今も昔も事情は同じ。芝居ものの中で、芝居だけで食べて
いくことが出来る人たちはごくごく一部であって、昭和も30年代に
なるとかなりの劇団が淘汰され消えていった。ところが、ここに
“天の助け”のように彼らに新たなアルバイト先が出現した。
昭和28年にテレビ局が日本でも開局し、そこで、洋ものテレビ番組
の吹き替えという仕事が新たな職種として誕生したのである(それ
までも洋画の吹き替えという仕事はあったが、それは教育映画などの
ごく一部のものだった)。演技・発声の基礎があって、安く使える
舞台俳優は格好の演者であった。
最初は舞台俳優の生活のためのアルバイトであった吹き替えは、やがて、
日本の誇る技術文化のひとつとして成長し、定着した。その文化を
演じ手の側から支えたのが声優さんたちであり、演出の側から作って
いったのが高桑氏たち演出家であった。
高桑氏が他のアテレコ演出家たちと異ったのは、その仕事につく前に、
文化放送で演芸番組(ラジオ・コメディ)の演出を勤めていたという
前歴があったからだろう。リーガル天才・秀才などお笑い芸人たちの
アドリブになじんでいた彼は、やがてフリー演出家となり、NET
(テレビ朝日)でアニメ『ドラ猫大将』の演出を担当することになる。
やがて高桑氏の代名詞となるハンナ・バーベラアニメとの最初の出会い
である。1963年のことだ(なにぶん古いことで日本での初放映年も
資料によりまちまちだが、高桑氏本人のチェックが入っていると思われる
イーハトーヴ出版『ケンケンと愉快な仲間たち』の記述からとる)。
ともかく、この作品に高桑氏は、コメディアンの谷幹一、落語家の
立川談志、三遊亭歌奴(現・圓歌)、という異色のキャスティングを
して話題になる。枚数の少ない動画でリップシンクに気をつかう必要
のなかったハンナ・バーベラの作品群は、こういう専門でない人たち
を起用するのに適した作品であったのも幸いだった。はっきり言って
“それほどの作品でない”『ドラ猫大将』が、耳だけで聴けば、当時
流行りだった、『スチャラカ社員』や『てなもんや三度笠』なみの、
コメディアン総出演のバラエティなみの豪華番組に変貌したのである。
高桑キャスティングの背景には、当時のコメディ番組のイメージが濃厚
にあったことを見逃してはいけない。
これで高視聴率を稼ぎ、“ハンナ・バーベラだったら高桑”という
評価を得た彼は、『スーパースリー』『宇宙怪人ゴースト』『怪獣王
ターガン』といった作品では、コメディ畑から関敬六、トニー谷、
海野かつお、そして喜劇王榎本建一まで、ミュージシャン畑から
鈴木ヤスシ、石川進、さらには当時ユニークな指揮ぶりと独特の低音
の声で有名だったバンドマスター、スマイリー小原までをも引っ張って
きた。その人脈の広さは驚異的だった。
前掲の『ケンケンと愉快な……』によると
「僕の頭のなかには、NETで仕事を始めた初期の頃から、多方面の
異色な役者さんを声優としてどんどん起用していこうという考えが
強くありました」
ということだが、実は、こういう声優の起用は何も高桑氏が最初に
やったことでもなければ、特別珍しいことでもない。
すでに戦前から、古川ロッパや徳川夢声といった喜劇畑の俳優を
アニメの声にアテることは行われていたし(古川ロッパは日本初の
国産アニメ声優である)、戦後もディズニーアニメは四代目鈴々舎
馬風や五代目古今亭今輔といった落語家、逗子とんぼ、坊屋三郎
といった喜劇人、浜口庫之助、三木鶏郎のような作曲家、永六輔
など放送作家、さらにラジオドラマ版ではあるが現役政治家の浅沼
稲次郎などまで出演させており、すでに前例はいくらもあった。
高桑氏が凄かったのは、単に声質のみでキャスティングしていた
そういう前例とは一線を画し、キャスティングした人物の個性に
合わせ、原作アニメのキャラクターまで変えていってしまったという
その大胆さにある。『怪獣王ターガン』でトニー谷が演じた悪役
“片目のボス”など、完全にトニー谷そのままで、やられるときの
セリフが“おさいなら!”なのだ。
氏の最高傑作である『スーパースリー』(1966)では、典型的
二枚目風の愛川欽也、オカマしゃべりの石川進、田舎っぺの力持ち
関敬六のトリオのキャラクター付けはもちろん高桑氏のもの、そして
あの三人の“ラリホー!”という掛け声は口パクもない、まったくの
日本語バージョンのみのアドリブである。
http://www.dailymotion.com/video/x5rfqf_the-impossibles-01-the-bubbler_shortfilms
↑このオリジナル『IMPOSSIBLES』を見てみれば、われわれが見知って
いる『スーパースリー』と全くイメージが違うことがわかるだろう。
高桑氏が作り変えたのである。
『IMPOSSIBLES』は作られた時代のブームを反映してビートルズぽい曲を
演奏している。いかにも1960年代という感じだが、日本の子供たちに、
そういうパロディはわかりにくい。音楽もキャラクター設定もオリジナルな
ものにすることにより、驚いたことに高桑氏の吹き替えバージョンは、
グループサウンズブームが過ぎても古びることなく、オリジナルよりも長い
作品生命を保つことになった。アメリカではこの作品が一時完全に過去のもの
になっていた時期があったが、日本ではその間も、主題歌がずっと
カラオケに入って歌われ続けていたのである。
人気ナンバーワンの『チキチキマシン猛レース』(日本放映1970)は、
高桑氏には珍しく、本職の声優ばかりで固めたキャスティングであるが、
私はここがひとつの、日本の声優文化の分岐点になったと確信している。
出演していた声優たちに、完全に自分たちのオリジナルでキャラクター
を作ることを要求した結果、声優たちがみな、芸人を凌駕する個性を
出していったのだ。キザったらしい広川太一郎、落語風なしゃべりの
大塚周夫、ちょっとブリっ子の小原乃梨子、胸にイチモツの神山卓三
など、われわれが現在イメージしている彼らの声のキャラクターは
この作品で確定したようなものである。海外の俳優のセリフを翻訳
して伝える、言わば“声の代役”的役割だった声優が、自分たちの
声の個性で役をもらえるようになった。例えば大塚の声優歴の代表作
であるダレン・マクギャビンの『事件記者コルチャック』など、
ブラック魔王があって初めてあそこまで出来た吹き替えであろう。
『ケンケンと愉快な……』の中で、ミルクちゃん役の小原乃梨子氏が
「当時のディレクターでも、そういうことを言う人は、高桑さん
ぐらいでしたね」
と言っている。と、すれば声優ブーム勃興の基礎は高桑慎一郎が
一人で作ったものだったのだ。
『チキチキ……』放映の1970年には、すでに子供たちはアニメに
慣れ、声優たちの芝居に慣れていた。コメディアンたちのバラエティも
すでに下火となっていた。時代は声優たちのものになりつつあった
のだ。高桑氏はその後もコメディアン声優にこだわって、『スカイ
キッドブラック魔王』では関敬六や大泉滉、『幽霊城のドボチョン
一家』では牧伸二、由利徹、南利明などを起用するが、かつての
ような成功はおさめられていない。自分が作り出した個性ある声優の
文化が、自分の意識を超えて育っていったことに気がつかなかった
のかもしれない。
あと、これは高桑氏の仕事歴であまり語られることがない作品だが、
氏は1971年に珍作『ヤスジのポルノラマ・やっちまえ!』の演出に
加わっている。作画の監督は虫プロで『展覧会の絵』の演出も
やった三輪孝輝なので、アテレコの方の担当だったのだろう。
出演者は鈴木やすし、南利明、コロムビア・トップ、大塚周夫という
まさに高桑一家の人たちだった。
その後、日本の声優文化、アニメ文化は二転三転の変転を得て、
“アイドル声優時代”を迎えて今に至っている。晩年の高桑氏の
言には、往々にして昨今の声優たちに対する不満が述べられていた。
『ケンケンと愉快な……』でも、
「今の若い声優さんたちは、すべて形から入ってますよ。形だけ、
口先だけで芝居しようとするから、観ている方もノってこない」
というような苦言を呈している。生前に一度、インタビューをさせて
もらったことがあるが、その時も口をついて出るのは今の声優さんたち
の“引き出しの少なさ”だった。
……それは確かなことだ。いまの声優さんたちに、かつてのような
名人芸を期待することは出来ない。
だが、それは世の中が変わったからでもある。アニメというものの
質が変わり、ファンたちのニーズが変わった。それどころか、著作権
の意識が変わり、かつてのような、作品内容の勝手な改変は出来なく
なってしまった。
高桑演出は、高桑慎一郎という演出家は、60年代〜70年代という
時代が生んだ唯一にして絶後の存在なのだ。
それは高桑氏自身の価値を寸分も下げるものではないし、時代と共に
あるからこそ、その価値はますます高くまぶしく輝いている。
氏の作りだした吹き替え作品は、確かにひとつの時代を作った。
その栄光を、われわれは語り継いでいく義務を有していると思う。
ご冥福を祈ります。