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2011年2月16日投稿

理想とされた男 【訃報 喜味こいし】

喜味こいし師匠肺癌で1月23日死去、83歳。
中学校のころ、YMCAのキャンプに弟と参加したとき、
自己紹介のコーナーというのがあった。
「いとし・こいしでやろう」
と話しあって、二人で掛け合いで
「生れたときから兄弟で」
「それからずっと兄弟で」
「今でもなぜか兄弟で」
「当たり前や」
というのをやって大ウケしたことがあった。
あまりウケたのでこっちの方で“そんなに大したギャグじゃないのにな”
と思ったくらいだったが、事実、それほど発想の飛躍がある会話ギャグ
でもない。それが会場を爆笑させられるのは、兄弟漫才ならではの
テンポの合い方が絶妙だったのだろう。まことに僭越ながら、その頃の
私たちも、日常をずっと共にしている兄弟ならではのイキの合い方が
たまたま、いと・こい師匠のそれに偶然相似して、あの大ウケになった
ことと思われる。

それにしても、あれだけ息が合っていたのに似ていない兄弟だったと思う。
と、いうか、こいし師匠の顔は漫才の人と思えないくらい立派な顔で
あった。はっきりとした目鼻立ち、四角くて大きな顔、濃い眉毛。
会社の重役クラスか、政治家と言っても充分通用する顔であった。
映画や舞台などにもよく出たが、
「わしは大抵悪役や」
とぼやいていたそうだ。これも、コメディアンとしては顔が立派
すぎて、善良なボケではイメージに合わなかったからだろう。
いかにもコメディアン的な相貌の兄・いとし師匠との対比があまりに
明瞭で、“本当の兄弟ではないのではないか”と思っていたことも
あったのだが、戸田学氏の聞き書きによる『いとしこいし想い出がたり』
(岩波書店)で、両親と兄弟が揃って写っている写真を見て、アアと
納得したものだった。母・ますさんの顔がこいし師匠そっくりだった。
兄は父親似、弟は母親似と、はっきり分かれた兄弟だったのだ。

大阪しゃべくり漫才の第一人者といわれながら、二人とも生れは関東。
旅役者の父とお囃子の母との間に、旅興業の途中埼玉で出生。兄の方は
神奈川で生れた。生れてすぐに赤ん坊の役で(当然だが)初舞台。
全国を回っていたので、その大阪弁には“訛りがある”と、ベテランたち
にだいぶいじめられたらしい。驚くのは、そんな生れた時からの芸能界
育ちでいながら、二人が極めて一般人的な感性の持ち主であり、大阪芸人
にありがちな奔放(ある意味無軌道)な美学に囚われなかったことだ。

これも『想い出がたり』から引くが、漫才の師匠は荒川芳丸。砂川捨丸
系の、紋付袴で鼓を持って叩きながらしゃべるという古い漫才だったが、
ちょうどエンタツ・アチャコのしゃべくり漫才が人気を博していた頃で、
「お前らは若いからあれを練習したらええがな」
と自由にやらせてくれた。逆に言うと師匠からは何も学べず、全て子供
時代から自分たちで試行錯誤して漫才の形を作っていった。
決してエリートコースを歩いていたわけではなく、ドサ回り的な苦労も
イヤというほど重ねた彼らが学んだのは、どんな地方、どんな情報量の
少ない田舎に行ってもハジかれない、普遍性のある漫才の型の重要性
だったと思う。それが後のいとし・こいしの漫才の型となった。

『想い出がたり』を読んでも、とにかく人名とかのこいし師匠の記憶力
には驚かざるを得ない。血筋だとすると兄のいとし師匠もそうだったの
だろう。幼い頃から身の回りにいた芸人の、長所も盗んで肥やしにして
いただろうが、欠点・短所も多く目にし、凋落していった芸人たちと
その凋落の理由も記憶していただろう。ヒロポン、酒、女、バクチ……。
いずれも当時の芸人として彼らもたしなんだことと思うが、決して度を
過すことなく、良識人として知られていた。その中庸の精神が、そのまま
舞台に表れていた。同じ兄弟漫才でも、どこかに狂気の色があった
中田ダイマル・ラケットとははっきり異っていた。

面白いのは、ダウンタウン、島田紳助、爆笑問題といった、明らかに
いとこいとは種類の違う、狂気系のお笑いたちがいとこいにあこがれ、
彼らのような漫才をしたい、という無理筋な願いを抱くことだ。
なぜ彼らが自分たちと正反対のいとこいにそんなに魅力を感じるのか
と言えば、テレビ時代の、短時間内にギャグをつめこみ、視聴者の印象
に残る狂気のキャラを演じ続けることに、それだけ彼らがストレスを
感じているからではないかと思う。やすしはそのストレスに押しつぶされて
憤死した。いとこいの、常識の範疇から一歩も出ずに人を爆笑させられる
漫才は同業者にとり、最も手の届かない理想なのだろう。

軍隊時代、こいし師匠は広島で被爆して、背中に火傷の跡が残っていた。
水を飲もうと側までいった川に死体がどんどん流されてきた光景も
見ているし、また、自分が演芸係で重宝がられていたために、南方への
編成替えのメンバーから外され、他の兵隊が任命され、その船がハワイ沖で
沈められて自分の身代わりのようにして死んだ兵隊がいる、とも語っている。
しかし、自らそのような体験を語り始めたのは兄のいとしが亡くなってから
の最晩年であり、戦後60年近く、ずっと“君とこの嫁はんな”という
範疇のネタに終始していたということの方が凄いのではないか、と思う。
これをしてプロ、という。

YMCAのキャンプでは、あの自己紹介が功を奏してみんなが即、
打ち解けてくれて楽しい夏を過せた。ネタをお借りしたお礼と共に
ご冥福をお祈りする。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa