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2011年2月16日投稿

人間を描いた男 【訃報 ピーター・イェーツ】

人間というのは、功績で記憶されることがほとんどだが、
その功績と履歴を見比べて、なるほどこれなら、と納得する
タイプと、へえ、こんな人生送ってきた人が、と驚く
タイプとがいる。

1月9日に亡くなった映画監督ピーター・イェーツはまさに
前者の代表。カーアクション刑事ものの元祖、『ブリット』(68)
が最も知られる代表作だろうが、イェーツ監督の前身は
プロのレーシング・ドライバー。なら、あの迫力のカーチェイス
シーンが撮れたのも、むべなるかな。

また、演劇界の内幕を描いた『ドレッサー』(83)を渋く演出して
これまた感心したが、演劇界に詳しいのも道理、リチャード・
アッテンボローやジョン・ギールグッドを輩出したRADA
(王立演劇学校)出身で、『ドレッサー』の主役である
トム・コートネイやアルバート・フィニーの先輩である。
演劇人の心理なら手に取るように理解できるだろう。
一種若者のカルトとなり、歌謡曲にまで歌われている青春もの
『ジョンとメリー』(69)の演劇的な構成が堂に入っていたのも
なるほどと思える。

さらに、『マーフィーの戦い』(71)でナチスのUボートとの
戦いを描いているが、彼の父親は軍人で、実際にナチスと戦った
経験者なのだった……になるとちょっとこじつけめくか。
『大列車強盗』や『ホットロック』を撮ったのだから何か犯罪に
手を染めたことがあるのでは、と期待(?)してしまうところだが。

それは冗談にせよ、ピーター・イェーツの描く世界は、映画的
波乱万丈にあふれていても、その底に確固たる“人間”を描くリアリティが
あった。『ブリット』は後々のカーチェイスものの元ネタとして伝説化され、
アーサー・ヒルの『ザ・ドライバー』(70)など、宣伝文句が“こいつが
ハンドルを握ったらブリットでさえも追いつけない” という、他の映画の
ヒサシを借りるようなものだったが、そのマンガチックなリアリティ無視の
キャラ設定は『ブリット』とは彼岸にあるものだった(いや、それもまた
好きなんではあるが)。

『ブリット』のリアリティはどういうところにあるかというと、
主人公の腕利き刑事・ブリットをスーパーマンにしていないところだ。
スーパーで買い物をしたりする場面がよく言われるが、そもそも
このこの刑事は、最初に護衛の任についた証言者を暗殺されてしまい、
その事件の真犯人を探しだして逮捕しろと上院議員のロバート・ヴォーン
に命令されていながら、最後にその犯人を撃ち殺してしまう。
あの派手なカーアクションからして、いまの映画ならブリットを、全て
を見通すヒーローにするところだが(で、真犯人は当然のことながら
ロバート・ヴォーンだろう)、ブリットは、ラストで犯人の死体を
見下ろしながらただ、立っているだけだ。
大人の映画、というものがこの時代はまだ、存在した。
そのビターさがピーター・イェーツの特質だろう。

同じことはどこまでもメルヘンに出来る話をぎりぎりで現実に
引き戻す『ジョンとメリー』もそうだし、ナチスのUボートと戦う
主人公(ピーター・オトゥール)を完璧なヒーローにせず、感情に
まかせて戦う男にした『マーフィーの戦い』もそうだろう。
その、大胆演出とリアリズムが最もいい形で結実したのが
『ホットロック』(72)だと思う。ドナルド・ウェストレイクの
マンガチックなドタバタ・泥棒もののストーリィと、奇想天外な
刑務所襲撃計画をリアルに描く演出が、ちょうどいい具合に均衡を
保って、荒唐無稽でないエンタテインメントになっていた。
カリカチュアライズされてはいたが、ゼロ・モステルの悪徳弁護士(しかも
仲間の一人の親父)など、あ、こういう人物いるいる! と思わせる怪演
であった。

リアリズムに準拠したニューシネマのいいところをすくって、
アクションものにそのエッセンスを注入することで、イェーツは
自分のスタイルを確立させ、そのスタイルは後に模倣者が続出する
ほどになり、やがてエンタテインメント映画の基本にまでなって
いった。だが、模倣されたのはあくまで“型”であり、どんなに
エンタテインメントに特化しようとイェーツが決して踏み外さなかった、
地に足をつけたリアリズムは、やがて形骸化し、ひたすらマンガチック
なアクションが“目立つ”という理由でもてはやされるようになった。

ニューシネマ時代にしゃれたアクションを撮っていた監督たちは
のきなみ『スターウォーズ』(77)以降、その精彩を欠いていくが、
これは、その身に付けたリアリズムの技法がどんどん、SW以降の
映画で必要性を減じていく状況の下で仕方ないことだったろう。
イェーツもその中でもがき、そのあがきが顕著な作品を作っていく。
1983年の『銀河伝説クルール』などは、SFファンタジー映画
という似合わない分野のものを無理矢理撮らされた苦悩が如実に
伝わってくる作品で、露骨なファンタジー的単純化をされた話に、
奇妙な部分的リアルっぽさ(普通のファンタジーなら殺される筈のない
役割の人物があっさり殺されるなど)が付随して、何か話がスカッと
しなくなってしまっているのだ。

ただし、これと同じ年に撮った『ドレッサー』が、流行などとは
無縁の、時代的にも空間的にも限定されたストーリィの枠の中で
思う存分、心理のアヤを優れた役者たちの競演で描くという、
ぜいたくな作りで秀作になっていたことを慶賀と思いたい。
むしろこの作品の中では、リアルな人間模様と見えてその実、
十二分にカリカチュアライズされたオーバーアクトな演技を
各役者たちに全開にして演じさせ、特殊な人間関係の中から普遍的
人間性を抽出することに成功していた。
戦争による劇場の破壊を目の当たりにして精神を惑乱させながらも、
舞台の上に上がれば有無をも言わさぬ名優にもどる座長(アルバート・
フィニー)にイェーツは自分自身を重ね合わせていたのではないか。
何か、そんな気がする。

その後もイェーツはトム・セレック、ピーター・フォーク、
マイケル・ケインといった役者たちと組んで、傑作とは言えない
までも、それなりに評価できる作品を作り続けた。時流から外れた後、
金のためにつまらない仕事を乱発してかつてのファンに頭を
抱えさせる監督が多い中、晩節を汚さなかったのは見事と言っていい。
それは、どんなに時代が変化しても変わらない“人間性”のリアリズム
を、この監督が押さえていたからだと思うのである。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa