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2011年2月15日投稿
【訃報 片山雅博】
http://www.jaa.gr.jp/modules/news/photo.php?lid=168&cid=1
↑この、死去を伝えるサイトの中の活動実績の記事に、
川本喜八郎氏を送る会、の報告があり、そこで、川本さんの
遺影の脇で、バッジを山ほどつけた、トレードマークの衣装で
立って挨拶しているのが片山氏本人である。いかにその死が
急だったかが、わかる。
この年齢になると、もう同年代の人間の死もそう珍しいことでは
なくなるのだが、それにしたって彼の死はショックだ。
アニドウで唯一、なみきたかしと同格で話すことが出来た男。
初めて会ったときからもう三十年以上たつ。私はあの頃、
大人ぶっていたガキであったが、片山氏はほとんど今と変わらぬ
老成した人格を持っていた。
例えばフィルムセンターなどでマニアックな古いアニメの上映を
観ていて、終って外に出ると必ず
「カラチャ〜ン」
と人懐こいような、意地が悪いような、そんな声が聞えた。
あんな巨体だったのに、私が彼を場内で発見したことは一度も
ない。どういう技術を用いるのか、身体を隠して、館内の
暗がりの中に、彼はいた。
で、私をつかまえると、
「えらいねえ、さすがだね、こんなマイナーなものまでちゃんと
観にきて」
とこっちをニヤニヤしながら持ち上げたが、何、そういう自分が
一番、どんなマイナーなアニメであっても上映するとあらば
駆けつけていたのであった。あのヨイショは、こんな古いアニメを
(テレビアニメなどは一切見ようとしなかった)愛して見に来る
のが自分一人じゃない、ということが、そのアニメのために心底
嬉しかったのだろう。
本当にアニメを、漫画を、その作り手を愛していた男だった。
潮健児さんの自伝『星を喰った男』の初刊行時のイラストと装丁
をお願いしたとき、待ち合わせの場所に彼が指定したのがまだ
その当時あった文芸坐の喫茶店(実際に『文芸坐の喫茶店』
という店名)で、そこでバンダイの編集部員と待っていると、
ド派手なアロハにパナマ帽、白縁のサングラスというハワイの
ギャングみたいな格好で現われて、私は口をあんぐり空けている
編集長に、
「いや、彼はこう見えても漫画協会で非常にエラい男で、
イラストレーターとしても活躍していて……」
と、頼みもされないのに汗をかいて説明せざるを得なかった。
本人は平気で
「飲んでいい? 飲もうよォ」
と昼間からビールをぐいぐいやってゴキゲンだったが。
結局、本が完成したときには、その編集長氏は、常用の筆記用具
を彼に倣って筆ペンにする(彼は絵も字も全て筆ペンで書いた)
くらいの片山ファンになっていた。
もちろん、後年の多摩美大グラフィックデザイン科教授とか、
アニメーター、イラストレーター、いくつもの肩書はあったが、
グループえびせん代表を別にすれば、“日本漫画家協会番頭”
と名乗っていたのが最もなじみ深い肩書ではあった。
銀座紅雀ビルにあった協会事務所を個人事務所みたいに
使っていてそこでよく打ち合わせをしたし、彼の自慢の映画
ポスターコレクションなども見せてもらった。一時、そこの
事務局を“もうやめる”と口癖のように言っていたが、一向に
やめる気配もなく、一度確かにやめたのだが、いつのまにか
また元に戻っていた(ここらへんは外から見ていた記憶なので
定かではないが、かなり複雑な状態だったのは確かだ)。
どうなってんのと訊いたら
「イヤさあ、オレがいなくなると、なにしろウチの会、ジイサン
ばかりだろ、顔をちゃんと知ってるのがオレだけなんで、葬式
とか出すことが出来ねエんだよ。だから葬式要員で引き止め
られちゃった」
と江戸っ子らしい毒舌でケムにまいた答えが帰ってきたが、
実際、葬式男として無くてはならない人材だった(これから
どうすればいいのだ?)。
もちろん、彼の有能さは葬式だけのものではなかった。
漫画協会の事務局はほとんど片山氏ひとりで保っていたような
ものだったし、一時いろいろ混乱した協会を、彼が走り回って
きちんとまとめたというのも、業界では知る人ぞ知る話だ。
「古い漫画のことを話せる奴がいないんで」
と、私にも執拗に入れと言っていて、入会はしたのだが、
ちょっとスタッフの対応に不満なことがあって、すぐにオン出て
しまった。これに関しては迷惑をかけてしまったかもしれない。
彼が“年よりの顔を知っている”のは、彼が年よりの世代の
描いた漫画を愛し、よく読み、また覚えているからであった。
「ほら、あの事件のときの『アトミックのおぼん』でさあ……」
と、まるでリアルタイムで読んだ世代かのように自然に話して
いた。私と三つか四つしか違わないはず、である。同じく古い
映画を愛し、古い芸人を愛し、いずれもその膨大な知識を
自家薬籠中のものとしていた。
一度、早野凡平氏の健康が思わしくないことを知り、彼に
「今のうちに見ておいた方がいいかもよ」
と雑談のときに言ったら、
「まぁた、カラチャンはさあ」
と笑っていたが、その一週間後くらいに本当に亡くなり、
びっくりした様子で私の家に電話がかかってきて、
「ねえねえ、今度誰が死ぬ? ホントに見ておかないとねえ」
と、冗談だか本気だかわからない口調で言っていた。
その代わり、新しいことは何にも知らなかった。知ろうとも
してなかった。テックス・アヴェリーを最近ではエイヴリー
と表記するらしい、と言ったら、
「イヤだ。絶対にそんな風には呼んでやらない」
と言い切っていた。パソコンも携帯も長いこと持っていなかった。
おかげでだいぶ彼との連絡には不便をかこちたものだった。
あるとき、電話がかかってきて、急にお金が要りような事が
出来た、マンガのコレクションの一部を始末したいんだけど、
どこか高く買ってくれそうな古本屋を紹介してくんないか、と
言われた。大したもンじゃないんだけど、とのことだったが、
彼のコレクションなら、相当の値打ちものがあると思い、
当時あちこちで有名になっていた専門古書店の名を教えたが、
彼は全くその店のことも知らないみたいだった。
個人的に知っていた買い取り係の名前を教えてやったら、
しばらくして、またまた興奮した口調で電話があり、
「驚いた! せいぜい十万か十五万で売れりゃオンの字だと
思っていたんだけど、五十万になったよ、五十万! いや
カラチャンのおかげだよ。今度飲イッパイやろう、おごるよ!」
と喜んでいた。その後、彼も私も忙しくなって、つい、その
約束を忘れたままになってしまった。これはあの世で彼に
会ったときの貸しにしておくしかない。
昔の仲間も本当に大事にした。私がアニドウをやめて一旦
都落ちしたあと、カムバックして単行本を出したときは、
わが事のように喜んで、関係ない喫茶店の親父にまで宣伝して
くれたし、私の本の装丁を元アニドウのIくん(なみきに
怒鳴られすぎてw心身症になってやめた)がやっていると
知ったときは、
「何、あいつ生きてんの? 真面目にちゃんと仕事できてんの?
いやあ、そりゃ嬉しいなあ!」
と、本気で喜んでいた(その後、某パーティで会ったIくんは
抱きしめられたそうだ)。
生涯独身を通したが、かつての『グループえびせん』の
メンバー、Sさんとは結婚を決心していた仲だった(本人から
聞いた)。その後、Sさんは交通事故で意識不明の重体となり、
しばらくの後、亡くなった。その枕元で、片山氏はパラパラ
アニメを作って、うっすらと目を開けることもあったSさんの
前で動かしてみせていたという。彼の陽気な言動の陰に、一面の
ニヒリズムがあったのはこのせいだろうと思っている。
アニドウの上映会で、なみきたかしと、あるいははらひろし氏
との、お見事な漫才的司会を聞くことはもうできない。
無声アニメに闊達な活弁をつけて語る彼の芸を見ることはもう
できない。酒の席での、ポンポン飛び出る悪口芸を聞くことも
もう出来ない。それはまあ、何とか耐えられるだろう。
だが、真っ暗い上映会の会場を出たとき、“かかるかな”と
秘かに期待している“カラチャ〜ン”という声をもう聞けない、
そう思うと、地べたにうずくまりそうになるような索漠感に
襲われる。
こう記すのもつらいが、こんなに早かったのは、きっと
Sさんが向こうで待ちかねたからだ。
彼は向こうで、Sさんと再会できる。
そう思うことで、何とか耐えるしかないのだろう。