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2011年2月5日投稿

反抗した男 【訃報 山下敬二郎】

1月6日死去、73歳。胆管がんによる腎不全。

「陸軍歩兵二等卒、ヤマシタケッタロー……」
このフレーズの何とも傑作な繰り返しで、山下敬太郎こと
落語家・柳家金語楼は日本で一番人気のある落語家になった。
そして、舞台に、スクリーンに、戦後はテレビにと活動の場を
広げ、喜劇王として業界に君臨していた。

山下敬二郎は、その息子である。敬太郎の息子だから敬二郎(本名は
啓次郎と書くが、音を通じさせたことは間違いない)……とまあ、
普通に考えれば理解はできるが、事はそう簡単ではない。
山下敬二郎の母は、金語楼こと山下敬太郎の正式の妻ではなかった。
要は愛人の子である。
愛人の子なのに、父の名をとってケイジロウと名付けられたのは、母は籍こそ
入ってなかったが事実上の正妻だったからであった。
戸籍上の本妻の子供は武という無難な名をつけられ、古書・幻想文学関係でも
有名な評論家・作家となった。
ひょっとして、字こそ違うがケイジロウと息子につけさせたのは、
正規の妻になれぬ彼の母の意地だったかもしれない。

ハゲ頭と、何とも言えない笑顔で人気を得た父親の金語楼は、
仕事を終え一歩家に足を入れると、ニコリともせぬどころか、苦虫を噛み
つぶしたような顔で常に額に青筋を立て、周囲を怒鳴り散らす暴君だった。
“渋柿庵敬珍坊(じゅうしあん・けちんぼう)”という雅号(?)を名乗って
いたというから、自覚もあったのだろう。奇相をウリにして人気者になった
彼はまた、容姿に人一倍のコンプレックスも持っていた。

で、その反動か、やたらに愛人を作った。避妊法が徹底していない時代
だったからか、愛人の権利確保方が子供を作ることだけだった時代だった
からか、金語楼には非嫡子もやたらいた。“楽屋で石を投げれば金語楼の
息子に当たる”と言われていたという。で、愛人たちに手当てを与え続け
なくてはならなかった関係上、稼いでも稼いでも貧乏だった。敬珍坊と
言う名は、愛人たちからそう言われるのを前もって自分で言うことで
バリアーにしていた、とも考えられる。『徹子の部屋』に出た山下敬二郎
の思い出では、終戦後の食料難の時代、弟と自分がアワやヒエの混じった
飯を食っている前で、金語楼はうなぎを食っていたという。
「こういうものは稼げるようになってから食え」
とうそぶいて。

……こんな家長のいる家に生れて、まっとうに育つのは至難の業である。
敬二郎も当然グレて、非行の限りを尽した。あまりのグレぶりに、さすが
子供に無関心な金語楼も呆れ、少年院に入れることを考え始めた。
それを知って敬二郎少年は仰天し、ヨーデルで有名なウイリー・沖山
のカバン持ちになって、何とか親の目をごまかした。

親分肌の沖山のところには多くの若手業界人が集まっていた。雪村いづみも
いたし、ペギー葉山もいた。中でも山下敬二郎にとって大きかったのは
渡辺晋とシックスジョーズのマネージャーをしていた渡辺美佐がいたこと
だった。美佐はひと目でこの若者の不良性ゆえの魅力を見抜き、彼を
日劇ウェスタン・カーニバルのスターとして売り出すことを考えた。
平尾昌晃、ミッキー・カーチスなどと出演した1958年2月8日の
第一回ウェスタン・カーニバルの熱狂ぶりは語りぐさになっている。

彼の最大の、いや、唯一のヒット曲が『ダイアナ』。周囲の反対など
ものともせず、いや、オトナたちの反対こそを唯一のエネルギーとして
年上の女性を追い求める、反逆の歌であった。

この時代のティーンたちの多くは、父親像というものを持てずに育った
世代である。かつて厳然と存在した日本の父親像は敗戦でその威厳を消失
させ、その次の世代は生きること、家族に食べさせることに忙しく、
家庭を、子供たちを省みる暇がなかった。父親という失われた存在を
求めるが故に、父親の世代に反抗してあがく敬二郎に、当時の若者は共感を
抱いたに違いあるまい。それは暗い熱狂に支えられた共感であったが。

ロカビリーブームはあっという間に過ぎ去り、平尾昌晃は歌謡曲の世界へ、
ミッキー・カーチスは映画の世界へと転身した。ひとり、山下敬二郎だけが
『ダイアナ』と一緒にフェード・アウトしていった。パチプロになって
生活費を稼いでいた時期まであったらしい。その間に、4度の結婚と離婚
を経験。“家庭”の保ち方を身につけていない彼に、暖い家庭を作る素地は
なかったようだ。

やがてロカビリーは“現在”の熱狂から、ノスタルジアと変わる。かつての
痛みを伴った狂騒は、時と共に甘い郷愁へと転化していく。その郷愁の
時代のシンボルとして山下敬二郎には再び脚光があたり、彼の歌う
『ダイアナ』の反抗のメッセージは、若く無謀が許された時代へのあこがれ
のメッセージと変わり、再び許容された。

1991年、26歳年下の歌手・山下直子と結婚、彼女と一緒にカントリー・
ウエスタンのステージを行いながら、二人の子供にも恵まれる。
聞いた話で本当かどうか知らないが、子供たちは思春期を迎えチョイグレ状態だ
そうである。かつての自分と引き比べて、子供たちの“反抗”を、彼はどう、
思っていたのか。

ただ、本人は父・金語楼とも晩年には和解したという。
畏友ミッキー・カーチス曰く
「こいつ、親父に似てないから」
と。父に反発する息子の多くが直面する、あんなに嫌った父親に、だんだん
自分の顔が似てくるという恐怖(マイケル・ジャクソンが整形を繰り返した
のはこれが原因のひとつだったのではあるまいか)。少なくとも山下敬二郎
はその恐怖からだけは逃れられていた。
幸運だったと思う。

誰よりも時代を背負ったアーティストだった。
彼の死は、“戦後”という時代の(やっとの)終焉を意味するだろう。
黙祷。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa