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2010年12月23日投稿
信じさせた男 【訃報 ゼカリア・シッチン】
10月9日死去。90歳。
トンデモ業界では、“惑星ニビル”という言葉をポピュラーにした
人として有名。
ニビルというのは細長い楕円形の軌道を持つ惑星で、3600年
周期で太陽の回りを回っている。3600年ごとに地球で文明の
大きな転換が認められる(農業の出現や鉄器の出現など)のは、
地球に近づくたびにこのニビルから宇宙人がやってきて、
文明を教えてくれるからだそうだ。
もちろん、そんなことをするのは単に親切だからではない。
ニビル人たちは地球の地下資源、なかんずく金(きん)を求めており、
それを採掘する労働力として、猿の遺伝子を自分たちの遺伝子と
かけあわせ、半ニビル人のような生物を作り出した。
それこそがわれわれ地球人であり、これが聖書にある
「神は自らに似せて人間を作った」
という言葉の真の意味だという。その他、聖書の記述は
古代シュメールの文献から来ており、これを解読することで
古代文明の謎が解ける、と主張して世界的ベストセラーとなった。
……もちろん、これらの説は多くの学者によってその誤謬を指摘され
トンデモ扱いをされているわけだが、このようなことを言い出した
のはシッチンが最初ではなく、また最後でもない。
エマニュエル・ヴェリコフスキー、エーリッヒ・フォン・デニケン、
そしてグラハム・ハンコック……と、時代と共に次々に出現している。
なぜこういう超古代文明論(古代宇宙人論)は人々に受入れられる
のか。日本ではこういう論はロマンというくくりで論じられる。
しかし、西欧諸国にとり、この論はキリスト教という大きな思想系
とからんでくる、やや複雑かつ深刻な問題なのだ。
世界の代表的宗教の中で最もロマンティックな天地創造神話を
持つキリスト教は、皮肉なことに近代以降、最も科学的・論理的な
思想により構築された文化を発達させることになった。そうなると、
その思考と神話を融合させなくてはならなくなる。大抵の人間は
思考の境を不分明にして
「あれはあれ、これはこれ」
といいかげんにしてオシマイにしているが、中にはそこに整合性を
求めたがる人もいるわけで、その整合性をどちらかに寄せてしまうと
ドーキンスのように無神論者になるか、あるいはキリスト教原理
主義者になって科学を否定せざるを得なくなる。
「何とか信仰に科学の裏付けを持たせることができないか」
と考える人が出るのは至極当然であり、例え疑似科学であっても
“聖書の記述は科学的に解明できる”とする思想に一定のニーズが
あるのはきわめて自然なことなのである。
さすがに聖書だけでは持たないのでさらに古いエジプトだのシュメール
だのの古代史まで持ち出しはするが、これらが正しいのなら聖書も
また……と人は考えることが出来るのだ。
例えその理論が、結局のところ神を宇宙人に置き換えただけであり
至高の存在の有無という問題を先送りしただけであろうとも。
科学の発達は常にその裏に信仰の消失という危険性をはらんでいる。
西欧の科学者が常にその二律背反に直面しているという現実は大きい。
ヴェリコフスキーの論など、日本ではその紹介のとき、くどいくらい
にそのデタラメぶりを叩いておかないとまっとうな文化人と思われなく
なる、という強迫観念に書評者はかられるらしいが、これがアメリカ
だと、ヴェリコフスキー理論を“正しいもの”という前提にして、
J・P・ホーガンのように『揺籃の星』という大作SFをものして
しまう作家まで出てくる。これが翻訳刊行されたときの日本での
SF関係書評の困惑ぶりはちょっと興味深いものだった。
ゼカリア・シッチンはその特徴的な名前でわかるようにイスラエル
生れのユダヤ人である。ヴェリコフスキーもユダヤ人であった。
信仰というものを人生の基礎におくユダヤ人である彼らにとり、
旧約聖書を“科学的に読み解く”という作業は、非常に高いニーズに
支えられた行為ではなかったか、と思うのである。
スケプティックス(懐疑論者)たちは当然のことながらシッチンの
論をボロクソに言う。『Skeptic'sDictionary』
http://www.genpaku.org/skepticj/sitchin.html
によると
「彼らの著作はまともな科学ではなく、出来の悪いSFである。
しかし彼らは、善きミステリーを愛して世界や科学的研究の限界に
無知で分別のない、そんな人々にとっては魅力的なのだ」
と、いささかミステリファンを馬鹿にしたような書き方をしているが、
シッチンの項目の冒頭に掲げられているロブ・ハファーニックの言葉
「彼は大衆に信じたいものを信じさせるような本を売って生活する、
毎度現れる変人のひとりにすぎない」
が、逆に端的に指摘しているように、シッチンの(ヴェリコフスキー
の、ハンコックの)こういう論は、確かに
「大衆が信じたいと思っているもの」
であることはあきらかなのである。
もし、シッチンらの論が懐疑論者の言うように人間に有害なもので
あったとして、で、あれば懐疑論者がそろそろ向いあわなくては
いけないのは、なぜ大衆がそういう論を(懐疑論者の好む科学的な
論でなく)信じたがるのか、ということの解明と対策だろう。
そこのポイントを解明しない限り、いくらシッチン個人をつついても
ダメであり、第二第三、いや、第一〇〇第二〇〇のシッチンが
現われるだけであろうと思うのである。
はるかな惑星ニビルに翔んだであろう彼の魂が、宇宙で迷子に
ならぬことを切に祈る。