ニュース

新刊情報、イベント情報、その他お知らせ。

イベント

2010年12月19日投稿

消されかけた男 【訃報 アレックス・アンダーソン】

10月22日、アレックス・アンダーソン死去、90歳。
アルツハイマーの合併症だったとか。

60年代にテレビでやっていたアニメ『空飛ぶロッキーくん』の原作者。
栗葉子のロッキー、浦野光のブルウィンクル、牟田悌三のナレーション
でわれわれの世代にはおなじみのアニメだったが、声が印象的という
ことはアニメそのものはあまり面白くなかったということだろう。
実際、原語版のビデオを手に入れて見たことがあるのだが、
10分と見続けていられなかった。動きがほとんどないのだ。

だがアメリカにおいては国民的といっていい人気を博し、あの
ロバート・デ・ニーロが制作・主演してアニメとの合成で2000年に
実写映画化したほどだった(評判はさんざんで日本では未公開、
WOWOWで放映された)。アニメとしては同じころ見ていた
フライシャースタジオのポパイやハンナバーベラの原始家族などに
競べても格落ちだったが、それでも毎回熱心に見ていたのは
キャラクターが印象的だったからだろう。殊に敵方のロシアのスパイ、
ボリスとナターシャのコンビが主人公たち以上に魅力があった。
悪玉キャラに人気が出た最初の例ではないか。

われわれの世代がテレビ時代ごく初期に目にしていた洋モノアニメに
『ヘッケルとジャッケル』、『マイティマウス』などがあるが、
これらの制作はポール・テリーが創立したテリー・トーン・スタジオの
作品であって、最初は劇場用短編アニメを作っていた。
ポール・テリーが初めてアニメーションを制作したのは
1915年、前年に見たウィンザー・マッケイの『恐竜ガーティ』に
触発されてだった。ウォルト・ディズニーが初めてアニメを作る
5年も前である。先輩にあたるわけだが、演出の才能も商売の才能も
ケタが違った天才、ウォルト・ディズニーに、あっという間に水を
あけられてしまう。それでもテリーは
「ディズニーはリムジンの高級車、自分の作品は乗り合いバスさ」
と平然として、完全主義のディズニーとは一線を画したアニメの
大衆化に尽力する。製作費の節約のため、顔と体を別々のセルに
描いて取り換えて撮影したり、セルをプールして使い回す方式などは
ポール・テリーが開発した手法である。

アレックス・アンダーソンは、このポール・テリーの甥にあたる。
テリー・トーンでアニメーターとして働いていた頃、テレビの台頭を
見て、これからはテレビにアニメを売る時代だ、と直感し、
伯父に進言するが却下される。そこでアンダーソンは伯父のもとを
やめ、幼なじみだった友人のジェイ・ウォードと組んで、
テレビジョンアーツプロダクションを設立、アメリカにおける
最初のテレビアニメ『クルセイダー・ラビット(進めラビット)』を
制作する。1950年のことであった。

http://www.youtube.com/watch?v=lCyNmM8oGXY

彼らはエクゼクティブ・プロデューサーとしてテレビ草創期の大立者
であるジェリー・フェアバンクスに売り込みを依頼するが、
ウブな彼らはこの作品の権利を全てフェアバンクスに取られ、
会社も解散せざるを得なかった(フェアバンクスは作品を自分の
プロダクションの作品としてNBCに売るが、NBCは自分のところ
のネットワークではこの作品を流さず、系列の地方局で放送した
だけだった。しかし、その後数年で『クルセイダー・ラビット』は
全米の人気となる)。

『クルセイダー・ラビット』を今見てみると、止め絵の多用、
ナレーションによる状況説明、アップでの口パクなど、後のテレビ
アニメで使用されるテクニック(低予算故の)がほとんど使われて
いることがわかる。日本のアニメ評論家には、こういうテクニック
は手塚治虫が考案した、と言う者もいるが、実は10年以上前に
放映された『クルセイダー・ラビット』がもう、やっているのである。

とにかく、自分たちの作ったアニメを他人にとられた(ここらへん、
最初に作ったウサギのオズワルドの権利をユニバーサルにとられた
ディズニーとパラレルである)アンダーソンとウォードは、数年の
雌伏の後に、さらにテレビ向きに洗練された『ロッキーと仲間たち
(空飛ぶロッキーくん)』を作り出して世に問い、大人気を博す。
だが、ウォードがこのアニメの制作スタジオをロサンゼルスに
開いたとき、アンダーソンは、住んでいるサンフランシスコから
ロサンゼルスに移ることを拒否。ウォードは新しいスタッフを
ロサンゼルスで集めてアンダーソン抜きで制作を開始した。
これ以来、彼の名は、ロッキーやブルウィンクルのキャラクター
クリエイトとのみ記されて、制作や演出には関わっていない。
プロダクションの名義も『ジェイ・ウォード・プロダクション』
であり、アンダーソンの名前は入っていない。

彼がどういう考えでロサンゼルスへの移住を拒否したのか、
その理由はよくわからない。だが、どうもアンダーソンは仕事仲間
に恵まれていなかったようだ。結局、この作品においても、
キャラクターの権利はジェイ・ウォードに奪われていた。
キャラクターの権利登録書類の創作者名が、全てウォードの名前に
書き換えられていたのである。それにアンダーソンが気づいたのは、
1989年のウォードの死後2年たって制作された、ジェイ・ウォード・
プロのアニメに関するドキュメンタリー番組をサンフランシスコの
自宅で見ていたときだった。そこに、彼の名前は一回も
出て来なかったのである。

アンダーソンはこれにより、長いあいだ、ウォード・プロダクション
相手に訴訟を戦うことになった。その決着がついて和解したのは
1996年になってからである。

現在アメリカのテレビアニメの生みの親の名誉を独占し、
ウォーク・オブ・フェイムにも名の刻まれているウォードに対し、
アンダーソンはほとんど忘れられている存在である。
消されかけた、と言ってもいいかもしれない。
だが、もともとの、テレビでアニメーションを放送したらという
アイデアは、他の誰でもない、アンダーソンがアメリカで最初に
思いついたアイデアだった。
この事実だけは永久に残っている。

ちなみに、奥さんの談話によると、アンダーソンは第二次大戦中
は海軍でスパイをやっていたそうである。ボリスとナターシャが
魅力あるキャラなのも当然、と言えるかもしれない。スパイなのに
少々ノンキすぎるところも、何だか相似形である。
R.I.P.

Copyright 2006 Shunichi Karasawa