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2010年12月19日投稿

なんでも撮った男 【訃報 ロイ・ウォード・ベイカー】

横山ノックが大阪で1997年まで20年以上続けてきたトーク番組に
『ノックは無用!』というのがある。後にノックが大阪府知事を
セクハラ事件でリコールされるときもこの文句がリコール派に
よって唱えられた。
唱えていた人、あるいは番組を見ていた人たちも知っていたか
どうか、この題名は1952年のマリリン・モンローが初主演した
映画のタイトルからの借り物であり、映画はモンローのイメージと
タイトルでセクシー・コメディのようなイメージを持たれているが、
実は恋人の死で妄想に捕らわれた女性を描いたサイコ・サスペンス
ものなのであった。

まだ端役に過ぎなかったモンローを主役級に据えた(もう一人の
ヒロインもこれが銀幕デビューになるド新人アン・バンクロフト)
ことでもわかるように、製作費も安く押さえられたB級もので、演出も
ホテルの内部をほとんど出ず、予算を抑える工夫をしていた。
しかし気の毒なことに、出演者たちがその後ビッグになったため、逆に
過大な期待を抱いて見る人が多く、その結果、近年DVDなどで見た人から
「サイコものにしてはイマイチ」
などと評価されることが多い。
「監督にヒッチコックの才能の片鱗でもあれば」
などという無理(ヒッチコックの映画がどれだけ別格の予算や
倫理規定の特別扱いを受けていたか知らないのだから仕方ないが)
を言う若い半可通までいて、ちょっとイラつく。
“ヒッチコックの才能の片鱗”がこの監督にあったかどうかは
他ならないヒッチコック自身が証明している。
ヒッチのイギリス時代の最高傑作と言われている『バルカン超特急』
(1938)で第二班演出スタッフという重責をまかされていたのが、
弱冠22歳のロイ・ウォード・ベイカー、『ノックは無用』の監督
なのであった。

最初の映画現場での仕事がいかにもイギリス映画界らしく、“ティーボーイ
(スタッフにお茶を運ぶ役)”だったベイカー少年は、すぐに演出助手
に昇進、やがて第二次世界大戦で徴兵され、軍の記録映画係に配属
された。(ちなみに彼の上官に作家のエリック・アンブラーが
いて、ベイカーは戦後、映画監督になってすぐ、アンブラー原作の
作品『The October Man』を映画化している。軍隊時代のよしみで
映画化権を貰ったのだろう)。

イギリス映画とハリウッド股にかけて仕事をしていたベイカーだが、
彼の映画監督のキャリアを通しての代表作はイギリスで撮った
『S0Sタイタニック・忘れ得ぬ夜』(1958。この脚色もエリック・
アンブラー)で、これは実に39年後にジェームズ・キャメロンの
『タイタニック』(1997)が発表されるまで、“最良の
タイタニック映画”の名誉を独占していた作品である。

この映画の成功は制作のアーサー・ランク(黒人が銅鑼を鳴らす
トレードマークでオールド・ファンにはおなじみの映画会社のボス)
に莫大な利益をもたらしたが、しかしランクはそれにも関わらず
ベイカーを重用しようとはせず、彼の監督としての念願であった
作家アラン・シリトーの『土曜の夜と日曜の朝』の映画化を許そうと
しなかった(結局、それは1960年になって独立系プロダクション
で映画化され、アルバート・フィニーの演技が高く評価される)。
ベイカーはこれに嫌気がさしたのか、しばらく映画界を離れ、
テレビの仕事を主に手がけるようになる。中でも彼と気が合ったのが
後にジェームズ・ボンド役を射止めるロジャー・ムーアで、彼の
ためにベイカーは『セイント』と『ダンディ2・華麗な冒険』の
メイン演出をつとめることになる。

だが、その頃、映画界で彼に復帰の声をかけたところがあった。
それが、黄金時代を過ぎて、新風を求めていたイギリス怪奇映画の
名門、ハマー・プロダクションであった。ハマーに人材が薄い
SFタッチの作品の演出家としてベイカーは招かれ、クォーターマス・
シリーズの三作目『火星人地球大襲撃』(1967)を演出。
低予算ながらこの作品はイギリスはじめとする各国で高い評価を受ける。
私などはこの作品をベイカーのベスト作品、いや、英国SF映画の五指に
入る傑作と思っているほどである。イギリス人の好きな悪魔や幽霊ばなし
が伏線になっており、それにSF的な大風呂敷の解釈がつく、
という細かい工夫が英国風なのである。終末感にあふれたその画面作り
は、淡々とした悪夢を思わせ、アメリカ映画とは確実に異る英国風ホラー
の片鱗を見せていた。もっとも、撮影現場でクォーターマス教授役の
アンドリュー・キアとベイカーはかなり激しく対立したらしいが。

このままこの路線を続けていけばよかったのだがさらにハマーは、新たな
試みとしてホラーとセックス描写の合体を企画、レズビアンの吸血鬼が
登場する『バンパイア・ラヴァーズ』(1971)、男が女に変身するという
昨今の萌えエロマンガにありそうな怪作『ジキル博士とハイド嬢』(1971)
などを制作。ベイカーは諾々と会社のこの方針に従う。
キワモノ監督と呼ばれることも恐れなくなっていたのは、
映画界に対しすでに幻想を抱かなくなっていたが故なのか、それとも新奇な
分野には挑戦してみたくなる、映画人としての本能なのだろうか。

とにかく、この時期のベイカーの印象を一言でいえば“何でも撮る男”であった。
そして、ハマーの新機軸を求める混乱ぶりの極みとも言うべき作品
『ドラゴンvs.七人の吸血鬼』(1972)をも監督。ドラキュラと
カンフー、という水と油を無理矢理くっつけたような内容で、『吸血鬼
ドラキュラ』(1958)から続くハマーのドラキュラシリーズの終焉を
飾ることになる。
「香港に行くというのは楽しいことだ。映画を撮るのでなければ、
の話だが」
と後年語っているように、ひどい経験ではあったらしいが。

ベイカーは後年の映画作家たちのように大学で映画理論を学んだという
インテリ監督ではない。ヒッチコックがそうであったように、
若いうちから映画の撮影現場に身を置き、カチンコの鳴る音、
キャメラの回る音を身にしみつかせて育った映画少年出身である。
後半生のベイカーのフィルモグラフィを、映画監督としては堕落だ、
と憤る真面目な映画ファンもいるだろう(われわれ好き者にとっては
ありがたいことこの上ない監督ではあるのだが)。だが、それは
映画の質だの内容だのを基準にした、悪しき評論家的意見である。
映画の現場で育った、生え抜きの映画人であるベイカーにとり、
映画を撮影する、ということは呼吸をしたり水を飲んだりする
ことと同じく、“日常”だったのだろう。監督として選任され、
台本を渡されたら、それが低予算映画であろうがエクスプロイテーション
であろうが、とにかく撮ることが全て。それがベイカーの人生そのもの
だったのだろうと思う。
その彼の監督魂のおかげで、われわれは今日、究めて豊かなマニアック
映画群を財産として持っている。
感謝を捧げたい。
10月5日死去。95歳という長命を保った。

R.I.P.

Copyright 2006 Shunichi Karasawa