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2010年12月17日投稿
輝きを見せた男 【訃報 クライブ・ドナー】
映画監督クライブ・ドナー9月9日、ロンドンで死去。89歳。
アルツハイマーで闘病中だった。
レンタルビデオ店の棚がまだそんなに充実していなかった
80年代、彼の『オリエンタル探偵殺人事件』だとか、
『SFキング・オブ・アーサー』だとかがよく新入荷の看板作品
として店頭におかれ、借りて見てみては失望していた。
スクリーンで彼の作品を見た最後は1978年の
『バグダッドの盗賊』で、ロディ・マクドウォールやテレンス・
スタンプ、ピーター・ユスチノフなど豪華スターを集めていたが
これもどうにも、な出来の作品だった(イギリスではTV放送作品
だったらしい)。
IMDbでも、70年代以降の彼の作品で評価が高いものは
ほとんどない。評価としてはアルチザン的に、コメディであれ
SFであれファンタジーであれ、来た仕事は無難にこなす
B級監督といった感じであろう。
だが、クライブ・ドナー(アメリカの映画監督リチャード・ドナーと
混同しないこと)が光り輝いていた時代というのがあったので
ある。彼の才能は、スウィンギング60’sと密接につながって
飛躍していた。逆に言うと、ビートルズを頂点とする60年代
ロンドンの文化潮流が止んだとき、クライブ・ドナーもまた
その才能の輝きを失ったのである。
軍隊生活を終えて映画業界に飛び込んだドナーがまず足を踏み込んだ
のはフィルム編集の世界で、名匠デヴィッド・リーンのもとで
アルバイトをしていた。50年代半ばにはすでに監督として
デビューし、『少年は知っていた』(57)はビビッドな思春期の
少年心理とミステリ趣味をうまく組み合わせたサスペンスとして
評価される。
しかしイギリス映画は50年代末にハリウッド映画におされて
衰退、映画を作れなくなったドナーはしばらくテレビの世界に身を投じ、
雌伏の時期を過す。刑事ものから歴史ドラマまで“何でも撮れる”
器用さはここで身につけたのだろう。
やがて、イギリス映画が息を吹き返すのは60年代に巻き起こった
“怒れる若者たち”ムーブメント。マルコム・マクドウェル、
デヴィッド・ヘミングス等、一癖ありそうなヤング・スターたちが
社会問題を扱った問題作で一躍スターの座に踊り出で、そして、
それに『ヤア!ヤア!ヤア!』『ナック』『僕の戦争』の
リチャード・レスター監督が、ブリティッシュ・ポップスタイルの
軽みで対抗した。『ヤア!ヤア!ヤア!』には“ビートルズが
やってくる!”、『僕の戦争』には“ジョン・レノンの”と邦題で
つくことでもわかるように、レスターはビートルズのメンバーを
映画に起用し、世界的人気を得、イギリス映画の商業的価値を
一躍高めた。
こういう波の中、アメリカで『欲望という名の電車』『七年目の浮気』
などを手がけていたプロデューサー、チャールズ・K・フェルドマン
がイギリスに乗り込み、大金をかけてブリティッシュ・ポップの
決定版映画を作ろうと考えたのも、時流から言ってまっとうな
判断であった。フェルドマンは脚本にはアメリカからつれてきた
筆も立つ新人コメディアン、ウディ・アレンを起用し、出演もさせ、
イギリス映画界からはピーター・オトゥール、ピーター・セラーズ
の二大人気スターを主演に迎えて、さらに人気のブリティッシュ・
シンガー、トム・ジョーンズにバート・バカラック作曲の主題曲を
謳わせるという豪華版映画を企画した。
それが『何かいいことないか子猫チャン』(1965)
http://www.youtube.com/watch?v=G2iaE_pdh_8
そして、監督に起用されたのがクライブ・ドナーだったのである。
精神分析と艶笑喜劇を融合させるという、いかにもアレンらしい
ウィットと、『アラビアのロレンス』でストイックな魅力を見せた
オトゥールを気弱なプレイボーイ役にするという配役のセンスもよく、
ドナーはこの映画を見事なブリティッシュ・ポップ作品に仕上げ、
かなりの評価を世界で得た。若き日の伊丹十三はこの映画の
ファッションセンスを勉強するために何度も映画館に足を運んだという。
いささかまとまりに欠ける感はあるのだが、それはストーリィよりも
画面センスの方を優先させる当時のヨーロッパ・ポップ映画の方針と、
ウディ・アレンの脚本に不満があったフェルドマンが勝手に脚本を
書き直し、それに起ったアレンがまた書き直し、という連続だった
制作事情にあったようだ。とはいえ、クライブ・ドナーは
この作品で見事に世界に名を知られるようになり、ハリウッドに
招かれて、ジャック・レモンとピーター・フォーク主演のコメディ
『Luv』を撮ったし、“怒れる若者たち”のデヴィッド・ヘミングス主演
でイギリス映画としてはかなり大規模な歴史アクション『アルフレッド大王』
を撮ったりもした。時にドナー40代半ば。年齢的にはここらで脂の
のり切った時期の代表作を、という期待がかかるところである。
ところが、イギリスは70年代に入ったとたん、石油ショックに
端を発する大不況に陥った。日本も同じ時期に同じ状況に陥ったが
数年で景気の回復に成功したのに対し、戦後の高度経済成長を体験
せず、国家的体力を疲弊させていたイギリスはこの不況からの脱出
に手間取り、構造的不況が80年代まで続くことになる。
さしも隆盛を誇ったブリティッシュ・ポップも槿花一朝の夢と化し、
せっかく自分の領域をつかみかけていたドナーは目標を失った。
それからしばらく、ドナーは食うためにテレビCMの世界で
仕事をした。ここで、“食うために”、才能をスリ減らして
しまったのだろうか、70年代半ば、デヴィッド・ニーヴンが
老いたドラキュラを演じるという『MR.バンピラ』を撮った
ときには、かつての才気は枯れ果てた、というイメージで、
われわれ映画ファンを落胆させた。それから先の10年、
彼は『クリスマス・キャロル』『紅はこべ』『オリバー・ツイスト』
など、イギリスの名作を“無難に”映像化する職人演出家、
として仕事をする。さらには、ピーター・ユスチノフを主演にして
ポアロものの2番・3番煎じ、さらにユスチノフをスピンオフして
チャーリー・チャンもののパロディを撮ったりした。せっかく
ユスチノフを使うのだから、きちんと撮ればそれなりの評価も得られた
と思うのだが、プロデューサーの企画の貧困か、どの作品もとりたてて
見るところもなかったように思う。
母国イギリスの浮沈をそのまま一身に受けた感じのドナーではあるが、
しかし、その60年代の作品には、掬すべき滋味がある。
一時シネ・ヴィヴィビアンで当時の作品をリバイバルさせようという
動きがあったが、あれは今、どうなっているのか。
とりあえずは『少年は知っていた』をDVDで発売してほしい。
才能には、時代を超越して半永久的に光り輝くものもあれば、
時代と共に寝て、一瞬の光芒を流れ星のようにこちらの目に止まらせて
消えていくものもある。ドナーはたまたま後者だっただけで、
その輝き自体を否定することは誰にも出来ないのである。
黙祷。