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同人誌

2010年3月7日投稿

叩き続けた男(訃報 南方英二)

東京12チャンネル版『空飛ぶモンティ・パイソン』は、パイソンの
スケッチの間を今野雄二や秋川リサのトーク、そしてかのタモリの
コーナー(これがテレビのレギュラーデビュー)などでつないでいく
という構成だったが、もう一組、レギュラーだったのがチャンバラトリオ
のコントで、舞台でなく、屋外(大坂城とか)でロケをしていた。
モロに関西風のベタなギャグと、タモリやパイソンのズ抜けたギャグとの
落差が激しくて、大阪や京都在住の人たちは知らず、私たち
箱根以北の人間には、笑えたものの違和感はバリバリだった。

4人なのにトリオ、というのはちょっとアナーキーだったし、
リーダーがいるのにさらに別に頭(カシラ)がいる、というのも
奇妙だったが、メンバーの入れ替わりでいちいち名前や体制を変える
のが面倒くさい、というだけの理由だったようだ。

『空飛ぶ〜』では、ビデオ編集によるシュールっぽいギャグも
(多分、浮かないようにとのスタッフのアイデアだろう)後半は
出てきたが、基本、新撰組ネタなどのおなじみの掛け合いが
あった末に
「はい、そろそろ時間や時間」
と強引に進行を中断して、カシラこと南方が
「大阪名物ハリセンチョップ!」
という掛け声と共に伊吹太郎の顔面をバシーンとハリセンでしばき、
大げさに転げ回って痛がる伊吹に
「辛抱せえ、ジェニ(銭)儲けジェニ儲け」
と言い聞かせて終り、という一連のコントで、そのパターンは黄金律
的に全く変化せず、それは常に新しいことを面白がるというパイソンの
メンバー(や、あのころのタモリ)のギャグとは対極にあった。

「チャントリは花月などの舞台(イタ)の上でこそ光るので、屋外に
出してはいけない」
と森卓也が言っていたが、タモリやパイソンのギャグに開眼した高校生の
私の目にはいかにも古く映ったことは事実だった。しかし、また一方で
定番ギャグの強みというものをしみじみ学んだのも、その対比があった
からだろう。上記のジェニ儲け、のセリフはすっかりその後、私の日常の
会話の中に語彙として定着してしまった。

古いと言えばその体質自体も古かった。
叩かれ役としていい味を出していた伊吹は金銭的にルーズで大借金を
こしらえて吉本を追放、結城哲也は暴力団との交際をマスコミに叩かれて
これまた吉本を解雇、頭の南方自身も、事件こそ起こさなかったが競艇
マニアで、競艇に入れ込みすぎて家を二軒も手放すといったほどのハマり
ようだったそうだ。

困ったもの、と現代ではとられようが、昔は芸人なんて、みんなこんな
ものだった。と、いうか、一般的常識が欠けていればいるほど、
舞台の上でその芸は光った。社会のワクに縛られている人たちが、
やろうとしてもできない、そのワクの徹底した無視の代行こそが、
芸人の存在意義だった。デタラメに人生送れば送るほど、観客に
ストレスを解消させ得るのである。浮気をしただけで糾弾される、今の
お笑い芸人に、その能力はない。

南方は東映剣会の幹部であり、日本のチャンバラ映画史を語る際に
無視できない人でもあった。時には斬る側に回ることもある。
『忠臣蔵・桜花の巻』では介錯人として、師匠の中村錦之助を斬っていたし、
『女必殺五段拳』では、志穂美悦子相手に貫録十分な立ち回りをしていた。
それは、見方をヒネれば、クンフーアクションという、当時における
時代の先端対東映伝統のチャンバラの対決、ともとれた。

この歳になってしみじみわかるのは、世の中、新しいものだけでは
成り立っていかない、ということ。
いつも同じものを、同じところでやっているということが、いかに
古い観客を安心させ、新しい観客のアイデンティティを形成させるか
ということである。
昭和という時代がつくづく懐しいのは、激変の時代であった一方で、
変わらぬ文化というものがちゃんとあった、という理由によるだろう。
チャンバラトリオは、メンバーは上記のような理由でしょっちゅう
入れ替わっていたが、やっていることにはいつでも同じ、定番の安心感が
あった。訃報を聞いて奇妙な不安感にとらわれるのは、単に一芸人の死と
いうだけでなく、その”いつもあったもの“の喪失感によるものなのだろう。
合唱。

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